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コント・ド・シャンパーニュ広めたクロード・テタンジェが死去

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 1960年から2005年までシャンパーニュのメゾン・テタンジェの社長を務め、シャルドネ・メゾンとしてマーケティングを確立し、発展の原動力となったクロード・テタンジェが3日、パリで亡くなった。94歳だった。


 メゾンの創業者ピエール・テタンジェの息子として、1927年に生まれた。1949年、22歳でメゾンに入社し、2人の兄ジャン、フランソワとともに家業に携わった。ジャンは1960年代に自社畑の拡大に力を入れ、フランソワは経営を行い、クロードは米国市場を担当した。


 フランソワの急逝を受けて1960年にマネージング・ディレクターとなり、最終的にプレジデントに就任。2005年に引退するまで務めた。マーケティングに長け、大量の広告によってPRするシャンパーニュ・メゾンの戦略の原型を築いた。生産量100万本だったテタンジェを450万本に増やした。


 美と芸術を愛して、アンバサダーとして世界を駆け回った。1987年にはカリフォルニアにドメーヌ・カーネロスを創業した。テタンジェ料理コンクールや、芸術家とコラボレーションしたテタンジェ・コレクションの創始者でもある。


 父ピエールが設立して、フランソワが基礎を固めた家族企業のコンコルド・ホテル、バカラ・クリスタルなどの集まるソシエテ・デュ・ルーヴル・グループも、CEOとして発展させた。


コント・ド・シャンパーニュを成功させ
シャルドネ・メゾンの基礎を確立


 プレリュードとフォリー・ド・ラ・マルケットリを始めたが、先進的だったのがブラン・ド・ブランのコント・ド・シャンパーニュ。コート・デ・ブラン地区のグランクリュをブレンドして、1952ヴィンテージを1957年にデビューさせた。オーク樽で醸造し、ピノ・ノワールやムニエをブレンドするスタイルが一般的だった時代に、シャルドネ単一品種で造った点が画期的だった。


 コント・ド・シャンパーニュの成功を受けて、ティボー4世伯爵や、世界遺産に登録されたサン・ニケーズ修道院のチョークピットなどをプロモーションし、シャルドネ・メゾンとして、マーケティング戦略を構築した。ブラン・ド・ブランの人気を広めた先駆者でもある。


 英国の作家イアン・フレミングと長く文通を続けていた。その成果が実ったのが1963年の007映画「ロシアより愛をこめて」。オリエント急行の食堂で、ショーン・コネリー扮するジェームズ・ボンドがコント・ド・シャンパーニュを注文した。


 料理は舌平目。同僚を装った暗殺者(ロバート・ショウ)がキアンティを注文した。魚と赤ワインという奇妙な組み合わせが、暗殺者の正体が露見する伏線となっていた。

 

ブラン・ド・ブランの可能性を予見


 美食家のクロードは、ヌーヴェル・キュイジーヌの騎手だったポール・ボキューズやトロワグロ兄弟と交流があった。繊細なブラン・ド・ブランが支持される未来を予見していた。


 ヌーヴェル・キュイジーヌは和食の影響を受けている。来日した際のディナーでは、コント・ド・シャンパーニュ1995を、鮎や鱧と合わせた。


 「シャンパーニュでカキを食べる時は、酢とエシャロットではなく、レモンと黒コショウを振ってください。このグラスでは音も味わえます」


 そう言いながら、自社のバカラのグラスを弾いて、反響する音を楽しんでいた。優雅な物腰と知的な語り口の紳士だった。

 

 テタンジェ家の大勢の家族が支払う相続税を考慮して、引退する2005年にテタンジェのグループ企業を米国の投資会社に売却したが、おいのエマニュエルが買い戻した。現在はエマニュエルの娘ヴィタリーがメゾンを経営している。

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