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日本にボジョレー・ヌーヴォーを広めたボジョレーの帝王ジョルジュ・デュブッフが4日夕、亡くなった。86歳だった。現地報道によると、脳卒中でロマネシュ・トランの自宅で亡くなった。料理人のジョルジュ・ブランら多くの著名人が追悼の言葉を寄せ、2018年1月に亡くなったポール・ボキューズと並ぶフランス料飲産業の巨星の死を惜しんでいる。
デュブッフはフランスで最もよく知られるワイン商ジョルジュ・デュブッフ社の創業者。サントリーが1996年から輸入を始めて、ボジョレー・ヌーヴォーの代名詞となるブランドに成長させた。デュブッフは毎年のように、ヌーヴォーの解禁日に来日して、テレビや活字メディアに登場し、ヌーヴォーのブームを巻き起こした。日本は2004年に104万ケースを輸入し、世界の半分以上のシェアを占めるヌーヴォー大国となった。
1933年4月、ソーヌ・エ・ロワール県のクレッシュ・シュル・ソーヌで生まれた。早くに父を亡くし、家業の栽培農家を手伝いながら、18歳の時に自家元詰したプイィ・フュイッセやボジョレーを近隣のレストランに配達し始めた。初期の顧客に、その品質に着目した3つ星シェフのジョルジュ・ブランや故ポール・ボキューズがいたのはよく知られている。
優れた味覚の持ち主で、ネゴシアン(ワイン商)として頭角を現した。1950年代に生産者団体「L'Ecrin Maconnais-Beaujolais」を創設し、バルクワインの販売で、地元の販売業者とレストラン経営者の関係を確立した後、1964年にジョルジュ・デュブッフ社を設立。ボジョレー、マコネ、ラングドックなどを扱う年産3000万本を超す巨大ブランドに育てた。
1993年には、ロマネシュ・トランに「アモー・デュ・ヴァン」(Hameau du vin)と名付けたワインのテーマパークをオープンし、観光客を引き寄せた。日本だけでなく、米国など世界をプロモーションして回り、ボジョレー・ヌーヴォーを広めた。お手頃な地酒の産地だったボジョレーの可能性を引き出し、地元のワイン産業を活性化させた。ボジョレーに登場した自然派の生産者たちも、デュブッフが産地の知名度を上げた恩恵を受けている。
300を超す栽培農家から買い付けたワインをブレンドするテイスターとしての能力に優れていた。1日に200ワインを試飲したと言われる。花模様を施したボトルなどカラフルなパッケージングで、ボジョレーのチャーミングな魅力を世界に広めた。ジェネリックなボジョレーだけでなく、テロワールの違いを表現するクリュ・ボジョレーの魅力も広めた。2018年に息子フランクに経営を譲った。
マーケッターとして優れているが、ブルゴーニュの偉大な造り手ラルー・ビーズ・ルロワから、その試飲能力も高く評価されていた。2015年にマダム・ルロワがメゾン・ルロワで働き始めて60周年を記念して、ドメーヌ・ドーヴネイで開いた試飲会にも、世界のトップ評論家やピエール・トロワグロと共に出席した。
ボジョレーワイン委員会のドミニク・ピロン会長は「ボジョレーの旗を世界に掲げた。ボジョレー・ヌーヴォーのお祝いを生み出すのに貢献した」と追悼のコメントを発表した。
ヌーヴォー・ブームの時期に、11月第3木曜日の解禁日に合わせて来日するデュブッフと毎年のように顔を合わせた。痩身のデュブッフは口数は少なかったが、試飲コメントは正確で、ヴィンテージの違いを表現していた。
私が2003年、アモー・デュ・ヴァンを訪問した際は、デュブッフ自ら丁寧に案内していただいた。日本のヌーヴォー熱が最高潮だった時期だ。その際に、ヌーヴォーの出荷時には、ワイナリーから最寄りの高速道路のインターまで、空港に向かうトラックが数珠つなぎになると話してくれたのを今も覚えている。
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