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障害を恐れないリーダー
日本のワイン産業に刺激
2019年「Sommelier」170号
「de MONTILLE & HOKKAIDO」
ブルゴーニュのノウハウと日本人の繊細さ
ブルゴーニュのドメーヌの当主は大別して2通りのタイプがある。個性が強くて、強力にチームをけん引するカリスマ的な指導者。ラルー・ビーズ・ルロワがその代表だろう。衝突する部下は首を切られる。もう一つはチームワークを重視し、それぞれの持ち場にいるスタッフをうまく動かす調整型。目立つのを嫌い、手柄を部下に譲るオベール・ド・ヴィレーヌはこちらに入るだろう。対象的な2人がうまくやりながら、DRCを率いていたのは奇跡的だった。
実際には1人でワインができるわけではないが、リーダーには様々なタイプがいる。ヴォルネイに本拠を置く名門のドメーヌ・ド・モンティーユのエティエンヌ・ド・モンティーユは後者に入るだろう。
エティエンヌが函館でブルゴーニュ品種を生産するブランド「de MONTILLE & HOKKAIDO」(ド・モンティーユ&北海道)。7月19日に行われた植樹式で、彼は函館湾を見下ろす桔梗地区の高台に立って、こうあいさつした。
「私がブルゴーニュで培ってきたノウハウと日本人の繊細さや土地を知る感覚を合わせる。一緒に道を歩んで、最高品質のワインを造っていきたい。日本のワインがそれで発展していくことを期待している」
日本とフランスの国旗を手に、情熱的に語る彼の言葉からは、高い志と開拓精神が伝わってきた。それは会場を埋める、北海道内や東京から飛んできたワイン業界人の胸を打った。
「エティエンヌ・ド・モンティーユが日本にワイナリーを開設」
2017年、香港から流れてきたニュースを目にして驚いた。すぐに思い浮かべた言葉は「黒船来航」だった。今思えば、何と島国的な発想だったのか。自分の見識の浅さにあきれている。彼は経験や歴史を武器に、威圧的に乗り込んでくるような人物ではなかった。日本の生産者たちと手を携えて、未来を切り開こうとしている。
行政や政府を巻き込むパワー
地質と気候から函館を適地に定める
この2年間の軌跡を振り返ればわかる。プロジェクトに加わる日本人とフランス人からなる約10人のチームを動かして、縦割り行政の壁を崩してきた。国税庁から北海道庁、函館市、フランス大使館まで、熱心に働きかけて、障害を取り除き、短期間で計画を前進させた。国税庁にとっては北海道GIの価値を高められる。函館市はワインツーリズムの拠点にできる。フランスから輸出する苗木の検疫期間の短縮は、日仏両国に役立つ。全員に利益をもたらす青写真を描いた。チームのような一体感が生まれている。その場にいる人間を巻き込む天性のリーダーだ。
ブルゴーニュに暮らし、函館と行き来するアシスタントの石黒かおりさんが語る。
「一度決めたらやりとげる。フランスだろうと、アメリカだろうと、日本だろうと。ラグビーの試合をしているような気分になります。いつもタックルして、つぶされようともくじけない。完成された人間よりは、未完成な人間を入れ込んでやっていく。意志の強い人です」
それにしても、なぜ函館なのか。ブルギニヨンが進出する土地と言えば、ドルーアンが先鞭をつけたオレゴンが一番手だ。ニュージーランドやカリフォルニアも可能性がある。チャレンジャー体質のエティエンヌが答えた。
「成功して、出来上がった土地に興味はない。だれも挑戦していないから、やりがいがある。北海道は本州より涼しく、ピノ・ノワールやシャルドネに適している。桔梗地区は冬も寒すぎず、水はけがよかった。未来のために、ベストな土地だった」
日本ワインとの出会いは5年前。生産者名は明かさないが、友人に紹介されて、ボルドー品種やブルゴーニュ品種を飲んだ。可能性を感じた。ブルゴーニュの地質学者に調査を依頼し、土壌や気候から適地を探して、函館にたどりついた。函館でワインを造る自然派生産者「農楽蔵」の佐々木賢・佳津子夫妻、岩見沢で「10Rワイナリー」を運営するブルース・ガットラヴらから助言も得た。
地下1.5メートルまで掘削して排水管を埋めて、その上を近くの鉱山の石灰岩で埋めた。ボルドーではよく行われる畑の改良工事だ。自家製の苗床を作り、マサル・セレクションで優れた苗木を増やしている。突進力だけでなく、ブドウ栽培の歴史に支えられた緻密さも備えている。
畑を購入してドメーヌを拡大
チームを動かす指揮者の役割
ド・モンティーユ家は17世紀までさかのぼれる歴史を持つ。ドメーヌは1750年代に設立された。エティエンヌの父ユベールは、ブドウ栽培家と弁護士の二足のわらじを履きながら、戦後にドメーヌを発展させた。映画「モンドヴィーノ」でテロワールの守護神として登場した姿は、よく知られている。エティエンヌは1983年にドメーヌに参画。その後、パリの国際会計事務所で働き、2001年からフルタイムでドメーヌ運営を始めた。
ドメーヌ運営でも独自の才覚を発揮した。コート・ド・ニュイにも進出し、父の代に2.5haしかなかった土地を20ha以上に拡大した。2003年、妹のアリックスが戻ってきたのを機に、メゾン・ドゥー・モンティーユを始めた。2012年、運営を任されていたシャトー・ド・ピュリニー・モンラッシェを金融機関から買収し、ポートフォリオをさらに充実させている。
地価の高騰で、プルミエクリュ、グランクリュ畑の購入はもちろん、ブドウを買うのも難しくなった現在の状況を先読みするような動きだ。畑で汗をかくのが美徳と見なされるが、畑の大切さがわかっているヴィニュロンは、機会があれば畑の拡大をためらわない。デュガ・ピィもDRCも少しずつ、フェルマージュやメタヤージュで畑を増やしている。
現在は、ドメーヌ・ド・モンティーユとシャトー・ド・ピュリニー・モンラッシェを統合し、米国人のブライアン・シーヴを最高醸造責任者に据えている。「ブルゴーニュで米国人のワインメーカーは普通ではない(笑)。でも、ブライアンは完全にブルゴーニュのパレットを持っている。私とはパレットやワイン造りの点で完全に意見が一致している」と、エティエンヌは語る。
変化を恐れない。ワイン造りも、父の時代の長期熟成スタイルと変わって、若くてもアプローチャブルなエレガントなスタイルに変わった。ビオディナミを導入し、白ワインの酸化前熟成を防ぐため、ドゥミミュイで醸造し、2011年の赤ワインのグランクリュからディアム30を使い始めた。何かに付けて先進的で、ダイナミックに行動している。それは戦後にドメーヌを再建してきた父を見習っているのだという。
「私はチームを動かす。楽団の指揮者のようなものだ。かおりや(プロジェクト・マネジャーの)バティストが音楽を奏でる。それをまとめるのが私の役割だ。指揮者がいなければ、ハーモニーは生まれない」
ブルゴーニュの農民は、ビジネスに強い造り手を敬遠する傾向にあるが、グローバル化の波は否応なしに、保守的な農村に押し寄せいている。いつの時代も、革新的なことを始めるのは、主流から外れた道を行くチャレンジャーだ。その時は、批判されても、後になって正しかったと歴史が証明した出来事は多い。ブルゴーニュの変革者が、函館でワインを生産するのは、日本のワイン産業に大きな刺激をもたらすに違いない。
プロファイル
Etienne de Montille(エティエンヌ・ド・モンティーユ)
ヴォルネイのドメーヌ・ド・モンティーユ当主。パリで企業のM&Aをこなす弁護士を務めた後、米国のレストランでも働き、1983年にブルゴーニュに帰還。95年からオーガニック、2005年からビオディナミに転換した。
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