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DRCの共同経営者アンリ・フレデリック・ロックが亡くなった。56歳だった。
ブルゴーニュの現地報道によると、17日夜から18日にかけて亡くなった。ヴォーヌ・ロマネの複数の造り手によると、膵臓がんでスイスで治療を受けていた。
ロックはオベール・ド・ヴィレーヌと並ぶDRCの共同経営者で、ルロワ家側の代表だった。1962年生まれ。母はラルー・ビーズの姉で、既に亡くなっているポーリーヌ。1992年に解任されたラルー・ビーズ・ルロワに代わって、ルロワ家側から、アンリ・フレデリックの兄シャルルが代表となったが、ジュネーブからブルゴーニュに通勤する途中の交通事故で亡くなり、 アンリ・フレデリックが後任として、30歳で共同経営者となった。以来、オベールと26年間、コンビを組んできた。
オベールは引退後のDRC共同経営者の後任として、おいのベルトランを据える予定で、既に訪問客の対応などを任せている。ルロワ家側の後継者がだれになるかは不明。ラルー・ビーズとロックには子どもがいる。共同経営者の署名がラベルに記されることになっていて、現在発売中の2015年に続くヴィンテージからはロックの後継者の署名となるとみられる。
ロックはヴォーネ・ロマネ村のクロ・ゴワイヨットの畑を見て天啓を受けて、88年にプレモー・プリセに自らのドメーヌ・プリューレ・ロックを設立した。ニュイ・サン・ジョルジュの街で、ワインバー「ビストロック」(Bist'Roch)も経営していた。
ロックは、シトー派の古文書を研究し、、ビオディナミによるワイン造りを推進し、DRCと同じく全房発酵で醸造した。ニュイ・サン・ジョルジュ・プルミエクリュのクロ・デ・コルヴェ、ヴォーヌ・ロマネのレ・クル、レ・オート・マジエール、レ・スショ、クロ・ゴワイヨット、クロ・ド・ヴージョ、シャンベルタン・クロ・ドベーズなどなどを手がけていた。 日本では自然派ワインの先駆として、高く評価されていた。
フィリップ・パカレが独立する以前は、プリューレ・ロックの醸造責任者を務めていた。ドメーヌ・ド・シャソルネイのフレデリック・コサールとも交流が深く、3人の手がけるワインが、1990年代後半から、2000年代前半にかけて、日本で自然派ワインの人気が出る上で大きな役割を果たした。
ロックは自らのドメーヌのプロモーションで、2000年代前半はひんぱんに夫婦で来日していた。ヴォーヌ・ロマネ村のドメーヌ・デュージェニーの近くにある、DRCが所有していた歴史的なクロ・ゴワイヨットの畑を見た際に、「雷に打たれたようなインスピレーションを感じた」と話した。それ以前は建設業界などで働いていたが、これがワイン造りを始めるきっかけとなったと話していた。
DRCの顔はオベール・ド・ヴィレーヌで有り続け、彼が前面に出ることはなかったが、ロックは自らのワイン造りについては、深遠なる哲学的な言葉をはいた。温厚なオベールと比べて、ちょっとシニカルで、いつもこちらの心の底まで見透かす鷹のように鋭い目をしていた。一方で、ルロワ家の流れを組むため、裕福で、育ちの良さを感じさせた。
2000年に東京でヴィネクスポ・アジア・パシフィックが開かれた際は、正規の輸入元が決まっておらず、夫婦でカートを引いて会場入りし、彼のワインを知る一握りのプロにワインを注いでいた。ドメーヌのカーヴで夕食をすると、古いヴィンテージを5本も10本も開けてくれ、深夜2時まで語り尽くしたが、酔った雰囲気も見せず、元気だった。
ブルゴーニュの現地報道によると、17日夜から18日にかけて亡くなった。ヴォーヌ・ロマネの複数の造り手によると、膵臓がんでスイスで治療を受けていた。
ロックはオベール・ド・ヴィレーヌと並ぶDRCの共同経営者で、ルロワ家側の代表だった。1962年生まれ。母はラルー・ビーズの姉で、既に亡くなっているポーリーヌ。1992年に解任されたラルー・ビーズ・ルロワに代わって、ルロワ家側から、アンリ・フレデリックの兄シャルルが代表となったが、ジュネーブからブルゴーニュに通勤する途中の交通事故で亡くなり、 アンリ・フレデリックが後任として、30歳で共同経営者となった。以来、オベールと26年間、コンビを組んできた。
オベールは引退後のDRC共同経営者の後任として、おいのベルトランを据える予定で、既に訪問客の対応などを任せている。ルロワ家側の後継者がだれになるかは不明。ラルー・ビーズとロックには子どもがいる。共同経営者の署名がラベルに記されることになっていて、現在発売中の2015年に続くヴィンテージからはロックの後継者の署名となるとみられる。
ロックはヴォーネ・ロマネ村のクロ・ゴワイヨットの畑を見て天啓を受けて、88年にプレモー・プリセに自らのドメーヌ・プリューレ・ロックを設立した。ニュイ・サン・ジョルジュの街で、ワインバー「ビストロック」(Bist'Roch)も経営していた。
ロックは、シトー派の古文書を研究し、、ビオディナミによるワイン造りを推進し、DRCと同じく全房発酵で醸造した。ニュイ・サン・ジョルジュ・プルミエクリュのクロ・デ・コルヴェ、ヴォーヌ・ロマネのレ・クル、レ・オート・マジエール、レ・スショ、クロ・ゴワイヨット、クロ・ド・ヴージョ、シャンベルタン・クロ・ドベーズなどなどを手がけていた。 日本では自然派ワインの先駆として、高く評価されていた。
フィリップ・パカレが独立する以前は、プリューレ・ロックの醸造責任者を務めていた。ドメーヌ・ド・シャソルネイのフレデリック・コサールとも交流が深く、3人の手がけるワインが、1990年代後半から、2000年代前半にかけて、日本で自然派ワインの人気が出る上で大きな役割を果たした。
ロックは自らのドメーヌのプロモーションで、2000年代前半はひんぱんに夫婦で来日していた。ヴォーヌ・ロマネ村のドメーヌ・デュージェニーの近くにある、DRCが所有していた歴史的なクロ・ゴワイヨットの畑を見た際に、「雷に打たれたようなインスピレーションを感じた」と話した。それ以前は建設業界などで働いていたが、これがワイン造りを始めるきっかけとなったと話していた。
DRCの顔はオベール・ド・ヴィレーヌで有り続け、彼が前面に出ることはなかったが、ロックは自らのワイン造りについては、深遠なる哲学的な言葉をはいた。温厚なオベールと比べて、ちょっとシニカルで、いつもこちらの心の底まで見透かす鷹のように鋭い目をしていた。一方で、ルロワ家の流れを組むため、裕福で、育ちの良さを感じさせた。
2000年に東京でヴィネクスポ・アジア・パシフィックが開かれた際は、正規の輸入元が決まっておらず、夫婦でカートを引いて会場入りし、彼のワインを知る一握りのプロにワインを注いでいた。ドメーヌのカーヴで夕食をすると、古いヴィンテージを5本も10本も開けてくれ、深夜2時まで語り尽くしたが、酔った雰囲気も見せず、元気だった。
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