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ヴィノテーク2012年1月号掲載
何の世界でもトップになる人物は独自のメソッドをもっている。スポーツ、ビジネス、学問……。初来日したイギリスの世界一ソムリエ、ジェラール・バッセのアプローチは、極めて科学的だった。
金メダルを狙うアスリートのように、チームをつくった。心理学者、記録係、友人のソムリエたちを引き入れて、メンタル面から管理した。記録係を連れて、自宅から海岸まで散歩する間に、用語を暗記した。友人のソムリエからさまざまな質問を受けた。コーチの雇用やワイン購入には費用がかかる。2004年まで10年間、共同所有していたホテル・グループを売却し、その資金をつくった。
「コンクールに勝つには戦略が必要だ。ビジネスやスポーツと似ている。ワイン書も読んだが、ビジネス書から多くを学んだ。モチヴェーションの高め方やワインを売るテクニックを。ほかのソムリエがレストランでどのようにサーヴィスし、ワインを勧めているのかを見るのも勉強になった」
あらゆるものから学ぶ姿勢。おごりはない。極めつけは、レストランでコミ・ソムリエとして修行したこと。ロンドン近郊の三ツ星レストラン「ウォーターサイド・イン」で、無給で働いた。世界トップ級の実力者を使うのだから、雇う側も緊張しただろう。
「見習いとして、使ってくれと頼んだ。グラスの場所も、ワインのありかも知らない。緊張状態に置いて、白紙状態の自分をテストしようと考えた」
コンクールは、普段の職場とは違う戦場だ。いい仮想訓練になっただろう。
成功したビジネスマンのセミナーのように、話が分かりやすく、示唆に富む。それもそのはず。MBAも修得している。
「大志を抱いたら、信念をもって、目標に焦点を絞ること。メールや電話は後回し。わがままになって、トレーニングに集中しなければ。運は自分でつくるもの。あるプロゴルファーが言っている。『練習すればするほど、運がついてくる』と。訓練を積み重ねておけば、緊張した状態でも、サーヴィスの動作は自動的に出てくる」
ワイン界でただひとりの四冠王。1989年にマスター・ソムリエとなり、1998年にマスター・オブ・ワインを取得。2007年にMBAを習得し、2010年にチリで開かれた世界最優秀ソムリエコンクールで頂点へ。
高い自己規律の持ち主だが、素顔はジョークの好きなイギリス人だ。生まれはフランスのセント・エティエンヌ。イギリスとフランスの両国籍を有し、今年、大英帝国勲章(OBE)も受勲した。サンティアゴ大会の表彰台では、ユニオンジャックをまとって、喜びを爆発させた。
「私の感性はフランス人というより、イギリス人に近い。年をとってから、優勝できたのもイギリスで働いてきたから。フランスでコンクールで勝とうとしたら、若いころから、ソムリエの訓練を積み、準備しないと、はしごに上れない」
53歳の鉄人は遅咲きだ。1988年にソペクサ主催のイギリス・ソムリエコンクールで優勝したのが31歳。ほぼ四半世紀にわたって、挑戦を続けてきた。国際ソムリエ協会の小飼一至・前会長とは、現役選手だった時代に戦っている。2 位に甘んじない不屈の闘志と執念。すべてのソムリエに感動と勇気を与えたはずだ。世界最優秀ソムリエは6度目の挑戦で、王冠を獲得した。1989年と2000年は決勝に残れず、1992、2004、2007年は2位に終わった。普通なら2位でも十分ではないか。そうは思わなかったのか。何が駆り立てたのか。
「2位でいいと思ったことはない。夢を抱いたら、実現しなければ。自分を満足させるために。それが人生だ。何かを達成しようとしたら、明確なゴールを定めるのが大切。例えば、ただやせたいというだけではなく、体重を68キロまで減らすという風に。私の目標は、世界最優秀ソムリエコンクールに勝つことだった」
失敗も糧にした。ファイナリストに残れなかった2000年大会の敗因を分析した。
「だれもが私の優勝を予測していた。しかし、このときは著書の執筆が遅れて、時間不足だった。5月に本を書き上げて、9月の大会まで3か月しか準備期間がなかった。サービスのテンポが遅く、ミスもした。2007年に2位に終わったのは、38番目の出番となるクジを引いて、長く待つストレスに負けてしまったから」
心理学者を雇って精神面を強化したのは、そうした教訓から学んだのだろう。
1992 年の優勝者はフィリップ・フォールブラック、2004年はエンリコ・ベルナルド、2007 年はアンドレアス・ラーション。世界チャンピオンたちのその後の歩みを眺めると、実業家として成功を収めている。1989年優勝のセルジュ・デュプスのように、現場にこだわるソムリエは少ない。フォールブラックは「ビストロ・デュ・ソムリエ」を経営し、ベルナルドはパリで一ツ星「イル・ヴィーノ・デンリコ・ベルナルド」を切り盛りする。ラーションは、ミネラルウォーターのサン・ペッレグリーノをサポートし、自分のワイン・セレクションも発表している。バッセはブティックホテルを経営し、現場とビジネスの両方に軸足を置いている。
「コンサルタントはもうからない。ミシェル・ロランではないから。ジャーナリスティックな方向も難しい。ビジネスマンとして足場を築くのが最も安定している」
世界チャンピオンたちが、事業を展開するのは、ソムリエにビジネスマンの資質も必要な時代になったことを示している。ワイン産地は拡大する一方だ。各国を訪ねるには、スポンサーを開拓するくらいの才覚が求められる。情報収集にITは欠かせない。語学も基礎条件だ。イタリア人のベルナルドはフランスの三ツ星レストランで働いていた。バッセはイタリア語も解する。世界の一流ゲストを相手にしたサーヴィス経験が武器になる。その点は、ヨーロッパの代表が恵まれている。技術水準はさておき、英語が標準のアジア各国選手の将来も侮れない。2013年の東京大会で、日本勢が頂点を狙うには、そうした背景も必要だろう。
バッセの不屈の挑戦人生は、すべてのソムリエに勇気を与えたに違いない。現在はハンプシャー州で、妻のニーナとブティックホテル「テラ・ヴィーニャ」を経営している。
「妻に感謝している。家族がいなければ挑戦を続けられなかっただろう。優勝は長い旅の通過点にすぎない。今でもテイスティングや勉強を欠かさない。ワインにはいまだに新鮮な発見がある。毎日、向上している。2013年には東京に戻ってくるよ。世界最優秀ソムリエコンクールがあるからね。今度は選手ではなく、審査員としてね(笑)」
「今でもテイスティングや勉強は欠かさない。毎日、向上していると思う」というバッセにとって、世界チャンピオンはワインを取り巻く旅の通過点にすぎない。
肩書は当時のまま
何の世界でもトップになる人物は独自のメソッドをもっている。スポーツ、ビジネス、学問……。初来日したイギリスの世界一ソムリエ、ジェラール・バッセのアプローチは、極めて科学的だった。
金メダルを狙うアスリートのように、チームをつくった。心理学者、記録係、友人のソムリエたちを引き入れて、メンタル面から管理した。記録係を連れて、自宅から海岸まで散歩する間に、用語を暗記した。友人のソムリエからさまざまな質問を受けた。コーチの雇用やワイン購入には費用がかかる。2004年まで10年間、共同所有していたホテル・グループを売却し、その資金をつくった。
「コンクールに勝つには戦略が必要だ。ビジネスやスポーツと似ている。ワイン書も読んだが、ビジネス書から多くを学んだ。モチヴェーションの高め方やワインを売るテクニックを。ほかのソムリエがレストランでどのようにサーヴィスし、ワインを勧めているのかを見るのも勉強になった」
あらゆるものから学ぶ姿勢。おごりはない。極めつけは、レストランでコミ・ソムリエとして修行したこと。ロンドン近郊の三ツ星レストラン「ウォーターサイド・イン」で、無給で働いた。世界トップ級の実力者を使うのだから、雇う側も緊張しただろう。
「見習いとして、使ってくれと頼んだ。グラスの場所も、ワインのありかも知らない。緊張状態に置いて、白紙状態の自分をテストしようと考えた」
コンクールは、普段の職場とは違う戦場だ。いい仮想訓練になっただろう。
成功したビジネスマンのセミナーのように、話が分かりやすく、示唆に富む。それもそのはず。MBAも修得している。
「大志を抱いたら、信念をもって、目標に焦点を絞ること。メールや電話は後回し。わがままになって、トレーニングに集中しなければ。運は自分でつくるもの。あるプロゴルファーが言っている。『練習すればするほど、運がついてくる』と。訓練を積み重ねておけば、緊張した状態でも、サーヴィスの動作は自動的に出てくる」
ワイン界でただひとりの四冠王。1989年にマスター・ソムリエとなり、1998年にマスター・オブ・ワインを取得。2007年にMBAを習得し、2010年にチリで開かれた世界最優秀ソムリエコンクールで頂点へ。
高い自己規律の持ち主だが、素顔はジョークの好きなイギリス人だ。生まれはフランスのセント・エティエンヌ。イギリスとフランスの両国籍を有し、今年、大英帝国勲章(OBE)も受勲した。サンティアゴ大会の表彰台では、ユニオンジャックをまとって、喜びを爆発させた。
「私の感性はフランス人というより、イギリス人に近い。年をとってから、優勝できたのもイギリスで働いてきたから。フランスでコンクールで勝とうとしたら、若いころから、ソムリエの訓練を積み、準備しないと、はしごに上れない」
53歳の鉄人は遅咲きだ。1988年にソペクサ主催のイギリス・ソムリエコンクールで優勝したのが31歳。ほぼ四半世紀にわたって、挑戦を続けてきた。国際ソムリエ協会の小飼一至・前会長とは、現役選手だった時代に戦っている。2 位に甘んじない不屈の闘志と執念。すべてのソムリエに感動と勇気を与えたはずだ。世界最優秀ソムリエは6度目の挑戦で、王冠を獲得した。1989年と2000年は決勝に残れず、1992、2004、2007年は2位に終わった。普通なら2位でも十分ではないか。そうは思わなかったのか。何が駆り立てたのか。
「2位でいいと思ったことはない。夢を抱いたら、実現しなければ。自分を満足させるために。それが人生だ。何かを達成しようとしたら、明確なゴールを定めるのが大切。例えば、ただやせたいというだけではなく、体重を68キロまで減らすという風に。私の目標は、世界最優秀ソムリエコンクールに勝つことだった」
失敗も糧にした。ファイナリストに残れなかった2000年大会の敗因を分析した。
「だれもが私の優勝を予測していた。しかし、このときは著書の執筆が遅れて、時間不足だった。5月に本を書き上げて、9月の大会まで3か月しか準備期間がなかった。サービスのテンポが遅く、ミスもした。2007年に2位に終わったのは、38番目の出番となるクジを引いて、長く待つストレスに負けてしまったから」
心理学者を雇って精神面を強化したのは、そうした教訓から学んだのだろう。
1992 年の優勝者はフィリップ・フォールブラック、2004年はエンリコ・ベルナルド、2007 年はアンドレアス・ラーション。世界チャンピオンたちのその後の歩みを眺めると、実業家として成功を収めている。1989年優勝のセルジュ・デュプスのように、現場にこだわるソムリエは少ない。フォールブラックは「ビストロ・デュ・ソムリエ」を経営し、ベルナルドはパリで一ツ星「イル・ヴィーノ・デンリコ・ベルナルド」を切り盛りする。ラーションは、ミネラルウォーターのサン・ペッレグリーノをサポートし、自分のワイン・セレクションも発表している。バッセはブティックホテルを経営し、現場とビジネスの両方に軸足を置いている。
「コンサルタントはもうからない。ミシェル・ロランではないから。ジャーナリスティックな方向も難しい。ビジネスマンとして足場を築くのが最も安定している」
世界チャンピオンたちが、事業を展開するのは、ソムリエにビジネスマンの資質も必要な時代になったことを示している。ワイン産地は拡大する一方だ。各国を訪ねるには、スポンサーを開拓するくらいの才覚が求められる。情報収集にITは欠かせない。語学も基礎条件だ。イタリア人のベルナルドはフランスの三ツ星レストランで働いていた。バッセはイタリア語も解する。世界の一流ゲストを相手にしたサーヴィス経験が武器になる。その点は、ヨーロッパの代表が恵まれている。技術水準はさておき、英語が標準のアジア各国選手の将来も侮れない。2013年の東京大会で、日本勢が頂点を狙うには、そうした背景も必要だろう。
バッセの不屈の挑戦人生は、すべてのソムリエに勇気を与えたに違いない。現在はハンプシャー州で、妻のニーナとブティックホテル「テラ・ヴィーニャ」を経営している。
「妻に感謝している。家族がいなければ挑戦を続けられなかっただろう。優勝は長い旅の通過点にすぎない。今でもテイスティングや勉強を欠かさない。ワインにはいまだに新鮮な発見がある。毎日、向上している。2013年には東京に戻ってくるよ。世界最優秀ソムリエコンクールがあるからね。今度は選手ではなく、審査員としてね(笑)」
「今でもテイスティングや勉強は欠かさない。毎日、向上していると思う」というバッセにとって、世界チャンピオンはワインを取り巻く旅の通過点にすぎない。
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