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根性があれば皆が助けてくれる
日本ソムリエ協会「Sommelier」177号掲載
独立系インポーターの雄
市場を見ながらポートフォリオ構築
コロナ禍でインポーターの生き残り競争が始まった。飲料企業の傘下にある大手だけでなく、ファインワインを扱う中小インポーターも、レストランやホテルの落ち込みで収益減に苦しんでいる。
ファインワインの販売は、ワインへの情熱と専門知識だけではたち行かない。ポートフォリオに合わせたマーケティングと堅実な経営が求められる。ファインワインに強い独立系インポーターの中で、両方の資質を備えている数少ない経営者が、ヴァンパッシオンの川上大介である。
セミナーで土壌や気候の細部まで語り尽くす司会進行を見ていると、年季の入ったワインマニアに見える。コシュ・デュリやラモネら入手困難なブルゴーニュのドメーヌをそろえているせいもある。
だが、彼の本領は市場を見ながらチリなど新世界も含めたポートフォリオを組み上げ、それを適切なチャンネルに売る才能にある。パレットの優れているテイスターはほかにもいるが、先を読むマーケッターはそう多くない。
早稲田実業の中学部から早稲田大学の商学部までラグビー三昧。体育会系である。1993年、大手商社トーメンに入社するまでワインとの接点はなかった。
配属された洋酒部門から、トーメン食品に出向し、ファインワインの世界に踏み込んだ。提携していた東京・銀座の輸入元「ミツミ」は、クルティエのパトリック・ソニエ・ブラッシュを通じて、ブルゴーニュのトップドメーヌを輸入していた。
今では信じられないが、40ケースを超すコシュ・デュリを入れていた。だが、ミツミはバブル崩壊後、ルフレーヴの注文を留保して割り当てを失うなど苦戦した。結局、95年にトーメン食品に統合された。
川上がアピシウスやロオジエなどトップレストランに売り込んで、売上を伸ばしているとチャンスが訪れた。引退するブラッシュがクルティエの会社をトーメンに購入してほしいと提案してきたのだ。
ブルゴーニュでクルティエ修行
会社の売却計画に反発して独立
2000年、東京側の代表としてフランスに渡った。3年間でブラッシュの後継者となるのが任務。ブラッシュと付き合いのあるドメーヌの7割から信任の覚え書きをもらうように指示を受けた。師匠とともにブルゴーニュの蔵を回って顔を売った。造り手とクルティエの間に契約書はない。信頼関係ができれば握手する。最終的には9割の造り手から覚え書きを取り付けた。
「クルティエの仕事の一つが輸出先となる海外のパートーナーを探すこと。次に横のつながりが広い農民社会で人脈と情報をおさえて、ネットワークを築くこと。ソニエは『蜜蜂のように花から花へ飛び回って受粉させるんだ』と話していましたね」
98年のチリワインブームを経て、日本ではワインが徐々に暮らしに浸透していた。川上は3年の任期で、ブルゴーニュのトップドメーヌと密接な関係を築いた。引き継ぎした後、フランスに永住しクルティエとして生きてゆくはずだったが……トーメンフーズでは思いがけない計画が進んでいた。
幹部がブラッシュの企業ごとワイン部門を、大手企業に売却する案を練っていた。相手の会社が重視していたのは目先のキャッシュだった。スーパーに強い会社に、レストランやファインワインショップに売るノウハウはなかった。
ルソーやド・ヴォギュエ、コシュ・デュリら誇り高いヴィニュロンたちにとって、血と汗の結晶であるワインがどこへ売られるかは重大な関心事だ。その会社は「売り先は我々が決める」という考えを変えなかった。ファインワインのビジネスを理解していない幹部が仕切る大手企業の限界だった。
「それでは造り手から切られる。彼らは日本で無理して売る必要はない。ほかの市場からいくらでも引き合いがありますから」
板挟みにあった川上は反論したが、通じなかった。合理化を狙った人事計画もひどい内容だった。売却案はとん挫したが、洋酒事業本部の次長職にあった川上には許せなかった。結局、辞表を出して独立した。住宅ローンを抱える35歳。明確な青写真もない状況での起業となった。
資本金30万円でスタート
IT実業家から出資を取り付ける
2004年に創業したヴァンパッシオンの資本金は30万円。会社は自宅だった。社員4人の体制で回すには5000万円の資金が必要だった。手持ち資金はほとんどない。ITベンチャーや財界の関係者に名刺を配って歩いた。撒き餌のようなものだが、それでお金が集まるほど甘くはない。半年間、足を棒にして金策に駆けずり回った。
努力が運を引き寄せるのか、そこで幸運な出会いがあった。
東京・世田谷のワインバー。ある晩、アンリ・ジャイエのヴォーヌ・ロマネ・クロ・パラントゥ1987のマグナムを開けていた男性に出会った。自己紹介すると、男性はIT企業「GMOインターネット」の熊谷正寿・会長兼社長だった。熊谷はIT業界でもワインコレクターとして
名を馳せていた。出資のお願いに行くとーー
「あなたは成功する顔をしている。3000万円まで出しましょう」
川上は内心で快哉を叫びながらも、出資金を1000万円にとどめてもらった。経営権を手元に残したかったからだ。熊谷が出資すれば、投資家は集まるだろうという読みがあった。会社はひとまず走り出した。
川上はワインの営業はしてきたものの、起業の知識はほとんどなかった。実践的なノウハウは、どんな本にもブログにも載っていない。川上の将来を見込んだある経済人が、人脈の作り方、投資家の集め方、増資の仕方まで、財務の青写真を描いて、アドバイスしてくれた。それも、川上のガッツと志が引き寄せたのかもしれない。
それにしても、無謀とも言える退職・起業に走り出した理由はなにか?
「ブルゴーニュで3年間を過ごし、感じた人と人がつながって伝える想い。それを日本でもつなぎ続けて伝えたかった。もう一つはトーメンでクビを切られるかも知れない若い社員たちを救わなければという義務感と憤り。ソニエにも迷惑をかけて頭を下げた。きちんと軌道に乗せないと、死んでも償えないという気持ちでした」
2004年から3年間は会社に寝泊まりする暮らしが続いた。ヒリヒリしながらも、充実した日々を過ごした。会社は売り上げを伸ばし、2009年にはイタリアワインに特化した輸入商社「ヴィーノ・フェリーチェ」を設立するなど順調に成長を続けた。
コロナ禍で加速する業界の構造再編
ガッツがあれば生き残れる
増資を続けて、現在の資本金は2億9350万円に達した。売り上げがゼロでも2年間は維持できる体制にある。増資のたびに、ち密な市場分析に基づく経営計画を作成して資金を調達してきた。この点がほかのファインワインのインポーター経営者とは違う。先を読んで動いてきた。
「日本のワイン業界の構造再編が進むと予想していたが、コロナ禍で10-20年は早まったと予想している。ブルゴーニュのドメーヌもキャッシュフローに苦しみ、大手資本の畑買収が加速するでしょう。既に、蔵出し価格を上げている生産者と良心的な価格を保つ生産者に分かれている。インポーターも正しいブランディングで、生産者を支えていく必要がある」
冷静な分析をする一方で、経営には精神論も必要だと知っている。
「数々のピンチは生産者への愛、お客様への愛、社員への愛をベースにした根性論で乗り切ってきたところもある。はしごの上にどうしても昇りたいという意思があれば生き残れます。資金のことを教えてくれたり、コシュ・デュリがワインを渡してくれたり……皆が助けてくれるんです」
熱い口調で締めくくった。
Profile 川上大介(かわかみ・だいすけ) 1968年福岡生まれ。1993年トーメン入社。2004年ヴァンパッシオン創業。ブルゴーニュの伝説的なクルティエ、パトリック・ソニエ・ブラッシュに師事。
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