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「Sommelier」(日本ソムリエ協会)2016年148号
海に立つ銀杏の巨木
一夜明けたら、穏やかな海が信じられない姿に変わっていた。東日本大震災の翌日。畠山は宮城・気仙沼のカキを養殖する舞根湾(もうねわん)を前に、声を失っていた。
樹齢100年の銀杏の巨木が立ったまま浮かんでいる。津波が湾を取り囲む山から、根こそぎにしたのだ。いつもは濃い緑の海が黒く濁っている。気仙沼のタンクから流出した重油が流れ込んでいた。カキ養殖の筏はすべて流されていた。
電柱の上にもごみが引っ掛かっている。前日の津波の大きさを思い出した。海面が20メートル以上の高さに盛りあがり、大河が流れるように、寄せては引いてを繰り返した。高校年の時に体験したチリ地震の10倍の規模に感じた。52軒の家のうち、流されずに残ったのは10軒だった。
「何をどうしたらいいのか。先を考える余裕はなかった。でも、孫もいるし、生きていくしかない。飯を炊いて、食わなければならなかった」
高台にあった自宅は助かった。電気も水道もストップ。沢から水を汲み、米をたいて、たまたま陸に揚げていたカキを食べた。家を失った近所の30人を引き取って、数日間は共同生活が続いた。心配ごとは尽きない。作業船を救うため沖に出た三男の消息が絶えていた。気仙沼市街にある老人ホームで暮らす母の安否は?
借りた車で山を越えて、ホームまでたどり着き、職員にたずねた。「残念です」と首を横に振るばかり。2階の部屋に上がったら、ベッドに遺体が並んでいる。150人の入所者の半分が亡くなった。どれが母親かわからない。かけられた白い布を一つ一つめくった。苦しんだ形相の人もいる。ビクビクしながら布をめくり続けた。優しい表情をしていて救われた。火葬場が順番待ちで、2週間も待った。息子は無事戻ってきたものの、深い喪失感にとらわれた。
淡々と話す畠山と、後ろに広がる穏やかな海のイメージがかみ合わない。遠い昔の話のように聞こえるが、大震災が起きたのはわずか4年前のことだと思い出した。
死んだと思った海が再生
1961年に水産高校を卒業し、家業のカキ養殖業に参画。世界のカキ産地を訪ねて、研究を積み重ねた。やがて、足元の海の異変に気づいた。汚れた水で大量発生する赤潮だ。原因の一つが、家庭排水や農家の使う農薬の流入。山の森林が荒れ、泥水が川に流れ込むのも問題だった。フランスのロワール川流域で見たナラやブナの林を思い出し、気仙沼に注ぐ大川の上流に落葉広葉樹の植樹をすることを思いついた。1989年に始めたこの植樹運動は「森は海の恋人」と呼ばれ、教科書に掲載されるほど有名になった。20年かけて取り戻した海の青さ。それが、巨大津波によって一瞬で押し流された。
「2、3年は駄目じゃないと思った。海辺から生き物の姿が消えていた。海が死んだのではないか。それを一番恐れていました」
大震災から2カ月後、運動を通じて交流のあった京都大学の研究チームが、1000年に1度の大津波が海に及ぼす影響を調査しに来てくれた。信じられないような言葉を聞いた。
「畠山さん、大丈夫です。カキが食いきれないくらいプランクトンがいます」
そして、続けた。
「津波の被害が大きいのは干潟の埋め立て地です。川や森林にほとんど被害はない。森の養分は川を通して安定供給されているので、海の生き物は戻ってきます。森は海の恋人は真理ですよ」 畠山が続けてきた運動は、しっかりと実りをもたらしていたのだ。森と川が生きていれば、海の生命力は保たれる。畠山と息子たちは勇気づけられ、喜びをかみしめた。海のがれきを片付け、筏を浮かべれば、家業を続けられると。海の回復は予想以上に早かった。魚たちが戻ってきて、食物連鎖が動き出した。正月を過ぎるころには、筏が沈みそうになるくらいに、カキが成長していた。
「カキの成長は普通は2年くらいかかるのですが。半年で中身がピンポン玉のように大きくなっていた。築地の市場に連絡したら、三陸の牡蠣が全滅したので、カキが高騰しているという。漁夫の利でした(笑)」
海の回復力も強いが、カキ漁師もたくましい。
ルイ・ヴィトンから予想外の支援
簡素な小屋を建ててカキ剥きを再開した。仮設住宅に暮らす仲間に声をかけたら、働きたいという人ばかりだった。すぐに30人の従業員が集まった。翌年春には、ホタテの養殖も再開した。ホタテもすぐに大きく育った。事業が本格化すると、運転資金が必要となる。
そこを救ってくれたのがフランスのラグジュアリーグッズのメーカー、ルイ・ヴィトンだった。震災からまもないころ、「森は海の恋人」運動の事務局にメールが届いた。支援の申し出だった。畠山はパリ郊外の、初代ルイ・ヴィトンのアトリエに招待され、5代目のパトリック・ルイ・ヴィトンに対して、運動の意義を訴えた。
「実はルイ・ヴィトンと宮城のカキは縁が深いのです。50年前、病気で危機的な状況にあったフランスのカキを、宮城から輸出されたカキ種苗が救いました。ルイ・ヴィトンの原点は木製のトランク。森を大切にする気持ちは共通しています」
ルイ・ヴィトン社の寄付で、30人の作業員の2年分の賃金をまかなうことができた。
カキが大好物のフランスの料理人たちにも助けられた。世界で最も多くのミシュランの星を持つ1人、アラン・デュカスは料理人仲間に声をかけて、フランスで慈善パーティを開いてくれた。デュカスも50年前に、フランスのカキに救われた恩義を忘れていなかったという。
日本一幸せなおじいちゃん
畠山のふだんの格好は、ゴムの合羽と長靴だ。ブランド品とも星付きレストランとも無縁の暮らしを送っている。コンビニもない海辺の街で、生涯をカキの養殖に捧げてきた。その暮らしが危機に瀕したら、フランスの料理や実業界のトップがわざわざ会いに来て、支援してくれた。だれもが海の生命力を象徴するカキの輪でつながっている。畠山は志高く、カキに愛情を注いできた。気仙沼の再生は、カキの恩返しの物語かもしれない。
「惨事を経験したと言っても、だれも海を怖いとか、恨んだりしてません。我々は海で生きるしかないんですから」
畠山の家には3世代にわたる家族12人が同居している。中学1年の孫は、早くも家業を継ぐと宣言し、手伝っている。
「来年で震災から5年目。まだまだ問題はありますが、コミュニティも立ち直ってきた。息子も孫も家業を継いでくれる。私は日本一幸せなおじいちゃんですよ」
潮焼けした顔に満面の笑みを浮かべた。
1943年生まれ。宮城・気仙沼で、カキ・ホタテの養殖業を営む。1989年、「森は海の恋人」運動をスタート。2012年、国連が世界で5組の「フォレスト・ヒーローズ」に選出。「牡蠣とトランク」など著書多数。
海に立つ銀杏の巨木
一夜明けたら、穏やかな海が信じられない姿に変わっていた。東日本大震災の翌日。畠山は宮城・気仙沼のカキを養殖する舞根湾(もうねわん)を前に、声を失っていた。
樹齢100年の銀杏の巨木が立ったまま浮かんでいる。津波が湾を取り囲む山から、根こそぎにしたのだ。いつもは濃い緑の海が黒く濁っている。気仙沼のタンクから流出した重油が流れ込んでいた。カキ養殖の筏はすべて流されていた。
電柱の上にもごみが引っ掛かっている。前日の津波の大きさを思い出した。海面が20メートル以上の高さに盛りあがり、大河が流れるように、寄せては引いてを繰り返した。高校年の時に体験したチリ地震の10倍の規模に感じた。52軒の家のうち、流されずに残ったのは10軒だった。
「何をどうしたらいいのか。先を考える余裕はなかった。でも、孫もいるし、生きていくしかない。飯を炊いて、食わなければならなかった」
高台にあった自宅は助かった。電気も水道もストップ。沢から水を汲み、米をたいて、たまたま陸に揚げていたカキを食べた。家を失った近所の30人を引き取って、数日間は共同生活が続いた。心配ごとは尽きない。作業船を救うため沖に出た三男の消息が絶えていた。気仙沼市街にある老人ホームで暮らす母の安否は?
借りた車で山を越えて、ホームまでたどり着き、職員にたずねた。「残念です」と首を横に振るばかり。2階の部屋に上がったら、ベッドに遺体が並んでいる。150人の入所者の半分が亡くなった。どれが母親かわからない。かけられた白い布を一つ一つめくった。苦しんだ形相の人もいる。ビクビクしながら布をめくり続けた。優しい表情をしていて救われた。火葬場が順番待ちで、2週間も待った。息子は無事戻ってきたものの、深い喪失感にとらわれた。
淡々と話す畠山と、後ろに広がる穏やかな海のイメージがかみ合わない。遠い昔の話のように聞こえるが、大震災が起きたのはわずか4年前のことだと思い出した。
死んだと思った海が再生
1961年に水産高校を卒業し、家業のカキ養殖業に参画。世界のカキ産地を訪ねて、研究を積み重ねた。やがて、足元の海の異変に気づいた。汚れた水で大量発生する赤潮だ。原因の一つが、家庭排水や農家の使う農薬の流入。山の森林が荒れ、泥水が川に流れ込むのも問題だった。フランスのロワール川流域で見たナラやブナの林を思い出し、気仙沼に注ぐ大川の上流に落葉広葉樹の植樹をすることを思いついた。1989年に始めたこの植樹運動は「森は海の恋人」と呼ばれ、教科書に掲載されるほど有名になった。20年かけて取り戻した海の青さ。それが、巨大津波によって一瞬で押し流された。
「2、3年は駄目じゃないと思った。海辺から生き物の姿が消えていた。海が死んだのではないか。それを一番恐れていました」
大震災から2カ月後、運動を通じて交流のあった京都大学の研究チームが、1000年に1度の大津波が海に及ぼす影響を調査しに来てくれた。信じられないような言葉を聞いた。
「畠山さん、大丈夫です。カキが食いきれないくらいプランクトンがいます」
そして、続けた。
「津波の被害が大きいのは干潟の埋め立て地です。川や森林にほとんど被害はない。森の養分は川を通して安定供給されているので、海の生き物は戻ってきます。森は海の恋人は真理ですよ」 畠山が続けてきた運動は、しっかりと実りをもたらしていたのだ。森と川が生きていれば、海の生命力は保たれる。畠山と息子たちは勇気づけられ、喜びをかみしめた。海のがれきを片付け、筏を浮かべれば、家業を続けられると。海の回復は予想以上に早かった。魚たちが戻ってきて、食物連鎖が動き出した。正月を過ぎるころには、筏が沈みそうになるくらいに、カキが成長していた。
「カキの成長は普通は2年くらいかかるのですが。半年で中身がピンポン玉のように大きくなっていた。築地の市場に連絡したら、三陸の牡蠣が全滅したので、カキが高騰しているという。漁夫の利でした(笑)」
海の回復力も強いが、カキ漁師もたくましい。
ルイ・ヴィトンから予想外の支援
簡素な小屋を建ててカキ剥きを再開した。仮設住宅に暮らす仲間に声をかけたら、働きたいという人ばかりだった。すぐに30人の従業員が集まった。翌年春には、ホタテの養殖も再開した。ホタテもすぐに大きく育った。事業が本格化すると、運転資金が必要となる。
そこを救ってくれたのがフランスのラグジュアリーグッズのメーカー、ルイ・ヴィトンだった。震災からまもないころ、「森は海の恋人」運動の事務局にメールが届いた。支援の申し出だった。畠山はパリ郊外の、初代ルイ・ヴィトンのアトリエに招待され、5代目のパトリック・ルイ・ヴィトンに対して、運動の意義を訴えた。
「実はルイ・ヴィトンと宮城のカキは縁が深いのです。50年前、病気で危機的な状況にあったフランスのカキを、宮城から輸出されたカキ種苗が救いました。ルイ・ヴィトンの原点は木製のトランク。森を大切にする気持ちは共通しています」
ルイ・ヴィトン社の寄付で、30人の作業員の2年分の賃金をまかなうことができた。
カキが大好物のフランスの料理人たちにも助けられた。世界で最も多くのミシュランの星を持つ1人、アラン・デュカスは料理人仲間に声をかけて、フランスで慈善パーティを開いてくれた。デュカスも50年前に、フランスのカキに救われた恩義を忘れていなかったという。
日本一幸せなおじいちゃん
畠山のふだんの格好は、ゴムの合羽と長靴だ。ブランド品とも星付きレストランとも無縁の暮らしを送っている。コンビニもない海辺の街で、生涯をカキの養殖に捧げてきた。その暮らしが危機に瀕したら、フランスの料理や実業界のトップがわざわざ会いに来て、支援してくれた。だれもが海の生命力を象徴するカキの輪でつながっている。畠山は志高く、カキに愛情を注いできた。気仙沼の再生は、カキの恩返しの物語かもしれない。
「惨事を経験したと言っても、だれも海を怖いとか、恨んだりしてません。我々は海で生きるしかないんですから」
畠山の家には3世代にわたる家族12人が同居している。中学1年の孫は、早くも家業を継ぐと宣言し、手伝っている。
「来年で震災から5年目。まだまだ問題はありますが、コミュニティも立ち直ってきた。息子も孫も家業を継いでくれる。私は日本一幸せなおじいちゃんですよ」
潮焼けした顔に満面の笑みを浮かべた。
1943年生まれ。宮城・気仙沼で、カキ・ホタテの養殖業を営む。1989年、「森は海の恋人」運動をスタート。2012年、国連が世界で5組の「フォレスト・ヒーローズ」に選出。「牡蠣とトランク」など著書多数。
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