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サンタ・バーバラの野生児、オー・ボン・クリマのジム・クレンデネンが68歳で死去

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 冷涼なサンタ・バーバラから優雅なブルゴーニュスタイルのワインを造り出した先駆者ジム・クレンデネンが15日、就寝中に亡くなった。68歳だった。”ニュー・カリフォルニア・ワイン”の新世代にも影響を与え、歯に衣着せぬ物言いと長い金髪で、日本の愛好家から愛された野生児。早すぎる死を悼む声が世界から寄せられている。


 クレンデネンは1953年生まれ。父はオハイオ州のファイアストーン・タイヤで化学エンジニアをしていたが、南カリフォルニアに引っ越した。UCサンタ・バーバラで法律を専攻したが、ブルゴーニュとシャンパーニュに旅してから、進路を変えた。

 

冷涼なサンタ・バーバラの可能性を開拓


 1978年、サンタ・バーバラ郡の草分け的なワイナリー「ザカ・メサ」に入社し、アダム・トルマックと知り合った。1982年、2人はサンタ・バーバラ地区のブルゴーニュとシャルドネを造ろうと、ロス・アラモスの乳牛舎でオー・ボン・クリマを設立した。


 2人は7年後に分かれて、ジムは単独オーナーとなった。キュペの創業者ボブ・リンドクイストに招かれて、サンタ・マリア・ヴァレーのビエン・ナシード・ヴィンヤード(Bien Nacido Vineyard)近くで醸造施設を共用し、生産規模を拡大した。

 

 低い糖度で収穫し、新樽を控えめに、酸を重視した優雅なワインは、ブルゴーニュワインを愛する消費者から支持された。禁酒法後はさびれていたサンタ・バーバラを開拓し、ブルゴーニュ品種の産地としての可能性を知らしめた。現在は300を超すワイナリーが存在する。


 冷涼なサンタ・バーバラの可能性を唱道した。


 「サンタ・イネズ・ヴァレーやサンタ・マリア・ヴァレーはカリフォルニアで最も冷涼な産地。成育期の気温はロシアン・リヴァー・ヴァレーより常に5、6度は涼しい。過熟を避けるため、遅摘みはしない。フェノールの熟成のため、ブドウの種が茶色になるのを待つと、よく言われるが、それでは遅い。茶色になったバナナは食べないだろう」と語った。


 評論家のロバート・パーカーが1989と1990を称賛したため、人気は世界に広がった。だが、パーカーがアルコール度の高いビッグワインを好むようになって、消費者のワインの志向も変わった。トルマックが設立したオーハイも、パーカー好みの凝縮度の強いスタイルだったが、クレンデネンの緊張感とエレガンスを重視するスタイルは揺るがなかった。

 

 ジムはロサンゼルタイムズ紙やフード&ワイン・マガジンのワインメーカー・オブ・ザ・イヤーに選ばれるなど、世界のメディアや評論家から高く評価された。


 ジムのルーツは神様アンリ・ジャイエにある。1981年秋、伝説的なクルティエのベッキー・ワッサーマンの紹介で、ジャイエの下で研修した。ブルゴーニュで初めての収穫体験だった。ジャイエは食卓では温かく、人情あふれていたが、セラーでは厳しく、冷酷な人間だったという。

 

 ジャン・ニコラ・メオ(メオ・カミュゼ)もエマニエル・ルジェも、容赦なくワインを批判されたと。「よいブドウが得られれば、バケツでもいいワインが出来ることを学んだのが最大の教訓」と語った。

 

若い世代にも大きな影響


 1990年代には、シャルルマーニュの畑の歴史をさかのぼり、アリゴテにピノグリとピノブランをブレンドした白ワイン「ヒルデガード」(Hildegard)を生産した。ヒルデガルトはシャルルマーニュ大帝の妻の名前。

 

 ヴィニタリーに出かけてイタリアワインの魅力を発見し、2000年に始めたクレンデネン・ファミリー・ヴィンヤーズでは、ネッビオーロやグルナッシュも生産した。シャトーヌフ・デュ・パプのシャトー・ラヤスを訪問したこともある。


 ジムのスタイルと思想はギャヴァン・シャナンら若い世代に受け継がれ、優れたバランスのシャルドネとピノ・ノワールを探求する「イン・パースト・オブ・バランス」(IPOB)結成にも影響を与えた。ラヴノーにひかれてワインの道に入ったラジャ・パーは、2014年にドメーヌ・ド・ラ・コートで会った際に、「ソムリエの師匠はラリー・ストーン、ワイン造りではジムが最も影響を受けた師匠」と明言した。


 2度の結婚をし、息子のノックス・アレキサンダーと娘のイザベルを愛し、ワインの名前につけた。2人は父ともに働き、イザベルはアンバサダーとしてジムと共に来日。ノックス・アレキサンダーは日本の大学に通っている。ひんぱんに来日したジムはキリストのような長髪とサンタ・クロースのようなお腹で、どんなイベントでも人気者だった。

 

パーカーに迎合しない気骨あるパイオニア


 パーカリゼーションに迎合せず、我が道を貫いたロッカーのように気骨のある男だった。2000年代半ばになって、アントニオ・ガッローニらの登場で、オー・ボン・クリマを再評価する動きが強まった。


 2006年に来日した際は「パワフルなビッグワインを造っていたスティーヴ・キスラーが『もっとエレガントなワインを造りたい』と発言した。そう言いながら、スティーヴは相変わらずビッグワインを造っているが(苦笑)。デヴィッド・レイミーやマーク・オベールも、パワフルなワインからの変化をうかがわせる発言をしている。グラスで2杯程度しか飲めないようなワインはもういい、そんな思いは消費者にもある」と、相変わらずの遠慮ない物言いだった。


 ポール・ラトーは「25年近くの間、特別な友情を育む機会に恵まれた。彼の知性と業績を大いに称賛してきたが、先駆者精神、寛大さと親切をとりわけたたえた。ワインと人生についていろいろと教えてくれた。喪失がとても惜しまれる」とFacebookに投稿した。


 英国のジャンシス・ロビンソンは「この勇敢なパイオニアがいないと、ワインの世界は本当に貧しくなってしまいます。常にピノ・ノワールの祭典の活力と魂だった」と、パープル・ページで悼んだ。


 

2006年の来日時

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